公開日 2014年04月01日
にっぽん音吉
1832年宝順丸という千石船に乗り江戸へ向かう途中嵐に遭い、太平洋を1年2か月も漂流した後アメリカ西海岸へ漂着。
その後イギリス経由でマカオに送られ、そこでドイツ人宣教師ギュツラフの聖書の和訳に協力、翌年モリソン号に乗り日本へ。しかし浦賀、鹿児島で砲撃を受け帰国を断念。
中国にて、多くの日本人漂流民の援助を行い、送還の手助けをする。
また、イギリス海軍の通訳として日英交渉に力をつくした。美浜町が生んだ日本最初の国際人。
私たちの海
美浜町の小野浦に「岩吉・久吉・乙吉頌徳(しょうとく)記念碑」(いわゆる三吉記念碑)があることを、ご存知でしょうか。(地図はこちら)
これは昭和36年(1961年)、世界初の聖書の日本語訳に協力した小野浦出身の船乗りたちを記念して、日本聖書協会を中心とし、愛知県・名古屋市・美浜町・財界、その他各方面の協力と援助を得て建てたものです。
昭和55年には、周囲が整備されて小公園のようになりました。
しかしこの碑の物語るのは、そのことだけではありません。
記念碑は江戸時代の小野浦の船乗りたちの心意気を示しているものです。
美浜町の海岸地帯は、江戸時代には廻船で栄えた土地でした。
この時代は流通の中心が大坂(現在の大阪)、消費の中心が江戸(現在の東京)でしたから、二つの経済中心部の間を結んでたくさんの品物が運ばれました。
これを主として担ったのが海運であり、尾張の廻船はなかでも大きな勢力をもっていました。
江戸時代の半ば過ぎ、時代劇でいえば遠山の金さんのころ、知多半島の沖合に大きな廻船(千石船)が、しばしば姿をみせるようになりました。それからは、内海や小野浦を根拠地とする内海船や野間を根拠地とする野間船などで、それぞれ数十艘もあり、当時日本でも最大級の廻船集団でした。
なぜ、この地にそうした廻船の基地が生まれたかというと、大坂(現在の大阪)と江戸(現在の東京)を結ぶ東海地方の海上を行き交う商品の量が、そのころ急速に増えていったからです。
そしてこの地の廻船は、二つの大都市の中間に位置する地の利を生かして、急速に勢力を伸ばしていったのです。商品が増えた背景には、江戸の町人や近郊の農民など、そのころの庶民の消費生活が豊かになったことがあげられます。
時代劇でも貧しい町民たちが居酒屋で安酒を呑んだり、そばやうどんを食べたりする場面がでてきますが、こうした庶民の消費生活を支えたたくさんの物資は、まさしく知多の廻船集団などが運んでいたものといえるのです。
ところで、武士や大商人たちの消費する物資を中心に運んでいた菱垣廻船などが、幕府から厚く保護されていたのに対して、知多の廻船は庶民向けの物資を中心に運ぶ民間廻船として、厳しい競争の中で活動していました。ですから、知多の廻船からたくさんの漂流民が出たことは、実はそうした活発な活動のありようと深く関係していたといえるのです。
宝順丸の遭難
いま美浜町の西海岸(伊勢湾側)の奥田から若松・野間にかけて旧道を歩いてみると、大きな屋敷と蔵が残っています。これは廻船業の栄えた時代の名残なのです。
夏には海水浴場として賑わう現在の小野浦からは想像しにくいことですが、小野浦は廻船業を営む家が多くありました。
樋口重右衛門という人のもつ宝順丸も、そのような船の一つです。宝順丸は1,500石積み、現在の数え方では150トン位荷物を積むことができる長さ15メートルくらいの船でした。
乗組員は14人。大部分は小野浦の出身で、吉次郎と音吉(※乙吉とも書きます)の兄弟もいました。(良参寺に残っている過去帳や、墓石、また日本及びイギリスの外務省文書等によれば「乙吉」が本名と思われるが、イギリス外務省文書での本人の署名では「音吉」となっている。)
音吉と久吉は当時まだ14、15歳の「炊」(かしき)とよばれる見習い船員でした。他にも熱田(現在の名古屋市熱田区)の出身の岩吉という28歳の熟練した船乗りも混じっていました。
今から170年ほど前、天保3年10月11日、現代の暦になおすと1832年11月3日、正月を間近にして船が忙しくなる時期です。宝順丸は、米や陶器などの荷を積み、鳥羽から江戸へ向かってへ出港しました。ここから難所として恐れられていた遠州灘を一気に乗り切って江戸へ向かうのです。ところが宝順丸の消息はそのまま絶えてしまいました。
何ヶ月にもわたって江戸やさまざまな港の問屋に問い合わせても船の消息はありません。
「きっと冬の荒海で難破してしまったのだ…」
故郷の人々は悲しみながらも、良参寺に墓を建て、乗組員一同の霊を慰めようとしました。
生き残った三人
実際には、宝順丸は太平洋の上をあてどもなく漂っていたのです。
その時代の帆船は舵が大きく壊れやすかったので、海が荒れると舵を失うことが多く、また揺れる船の安定 を計るために、非常の際には帆柱を切り倒したため、嵐が収まっても港へ帰れなくなることがしばしばありました。宝順丸もそのようにして漂流したに違いありません。
船そのものは丈夫で長い漂流に耐えることができました。積み荷は米でしたから食料も十分ありました。
この時代には海水を蒸留して真水をとるランビキという方法も知られています。
だから宝順丸は14か月あまりも海上をさまよい続けることができたのです。
しかし長いあいだの海上生活で新鮮な野菜をとることができないと、壊血病という恐ろしい病気にかかってしまいます。こうして乗組員は1人倒れ、2人倒れて、とうとう音吉、久吉、岩吉の3人だけが生き残りました。
やがて船は海岸にたどり着きました。そこはアメリカ太平洋岸のワシントン州ケープ・アラバ付近。そこで音吉たちは、インディアンのマカ族に助けられました。後にイギリス船がやって来て3人は救われ、南方約200キロのコロンビア川をさかのぼった場所にある毛皮交易所フォート・バンクーバーへ引き取られました。ここで3人は初めて英語やキリスト教に出会うことに。そして、そこからハワイを経てロンドンへ。
わざわざこんな回り道をしたのは、フォート・バンクーバーにいたイギリス人が、日本を開国させるために音吉たちを利用しようと考えたからです。
結局、3人はロンドンを見物した最初の日本人になりましたが、イギリス政府は日本との交渉に熱心ではなかったため、3人が日本へ帰れるようマカオへ送りました。国を出てから既に3年の月日が経っていました。
マカオで和訳聖書に協力する
マカオはその当時、中国では唯一の外国人の住む地域でした。
3人の世話をしてくれたのは、ドイツ生まれの宣教師カール・ギュツラフです。語学に自信のあるギュツラフは3人を相手にして聖書の翻訳に取りかかり、1年がかりで「ヨハネ伝福音書」「ヨハネの手紙」の日本語訳を完成したのです。
こうして1年が経つあいだに、庄蔵という人を船長とする九州の船乗り4人が送られてきました。
この人々は熊本の近くから流されてフィリピンに漂着し、マカオへ送られてきたのです。
2組7人の漂流民は、以後力を合わせて生きていくことになります。
なつかしい日本へ~モリソン号の失敗
2組の日本人たちの前に、1つの日本送還計画が出てきました。
アメリカ人商人で熱心なクリスチャンでもあるC・W・キングが、漂流民たちを日本へ送って、これを機会に日本政府と国交を持ちたいと考えていたのです。
1837年7月、日本の暦にすれば天保8年6月、音吉、久吉、岩吉、そして九州の庄蔵、寿三郎、力松、熊太郎の7人の日本人たちは、キング夫妻、宣教師のパーカー、ウイリアムズらと一緒にモリソン号という船でマカオを出発しました。沖縄の那覇でイギリスの軍艦に乗って来た宣教師ギュツラフと一緒になり、モリソン号はさらに日本へと進みました。
そして梅雨空の7月30日(旧暦6月28日)、浦賀の沖に着いたのです。
しかし運命は残酷でした。モリソン号はいきなり大砲で砲撃されたのです。キングは交渉をあきらめ鹿児島で薩摩藩と話し合おうとしましたが、ここでも砲撃されたため、とうとう音吉たちは日本に帰ることをあきらめなければなりませんでした。
なぜこのような事になったかといいますと、二つの理由が考えられます。まず当時の日本でただ一つ、外国人と交渉する可能性のあった長崎へ行かなかったこと。つぎにこの時代の日本を代表していた幕府は、日本の近くに外国船が現れることが多くなったことに神経をとがらせ、「長崎に来るオランダの定期貿易船以外のヨーロッパ船は、理由を問わずに打ち払ってしまえ」という法律(無二念打払い令)を文政8年(1825年)に下したばかりだったのです。
この法律は天保13年(1842年)には撤廃されますから、音吉たちはまったく運の悪い時期に日本に帰ってきてしまったのです。せっかく日本の海岸を前にしながら、理由もはっきりしないままに大砲を打ちかけられた音吉たちは、どんな気持ちだったのでしょうか。
日本漂流民を助けよう
しかし本当に音吉たちが偉大であったと思うのは、その後の行動なのです。
7人の日本人たちは絶望にうちのめされましたが、気を取り直すと、今後自分たちのような不幸が繰り返されないために日本の漂流民を援助しようと誓い合ったのでした。
それから20年余り、7人の仲間の何人かは死んだり行方がわからなくなったりしましたが、少なくとも香港に住んだ庄蔵と力松、上海に住んだ音吉は、たくさんの日本人漂流民を救って日本に帰れるようにしたことが記録に残っています。
音吉が最後に援助した船は知多郡半田村(現在の半田市)の船でした。音吉は「半田の亀蔵によろしく」と若い時、同じ年配の炊だった少年への伝言をしています。
彼はまたイギリス海軍の通訳として二度、日本を訪れています。
とくに安政元年(1854年)にスターリング艦隊とともに長崎へ来たときには日英和親条約の締結交渉に力を尽くし、音吉という存在は長崎に知れ渡りました。その頃にはジョン・M・オトソンと名乗っていました。
上海のデント商会で貿易に従事した後、音吉はマレー系の女性と結婚し、1862年にシンガポールへ移り、貿易商として成功しました。
日本が開国し、最初のヨーロッパへの使節団が通過した時、わざわざ使節団の宿舎を訪ねてきたことが福沢諭吉の記録などから知られています。
こうして音吉は日本のことを考えながら慶応3年(1867年)、明治維新の前年にシンガポールで亡くなりました。息子のジョン・ウィリアム・オトソンに「いつか自分の代わりに日本へ帰っておくれ」と遺言したと言います。
息子のウィリアムは父の遺志に応えるため、さらに十余年のちの明治12年(1879年)に日本へ帰り、横浜で日本の入籍許可を得ました。そして父の名である「山本乙吉」に改名しています。その後、神戸で日本人女性「近藤りん」と結婚し二男一女に恵まれました。そして家族とともに台湾へ移り、乙吉(ウィリアム)は1926(大正15)年8月、妻りんは1934(昭和9)年10月に台北で亡くなりました。
遺灰の帰郷
去る2005(平成17)年2月20日(日曜日)、故山本音吉氏の遺灰が天保3年の漂流後173年ぶりに帰国を果たしました。
1867(慶應3)年1月18日、シンガポールのシグラップ地区アーサーズ・シートにおいて50歳の生涯を閉じた故山本音吉氏(または乙吉。英語名ジョン・M・オトソン)は、翌19日にブキティマ通りにあったキリスト教徒墓地に埋葬されましたが、1970年に同墓地が都市計画によって公園へと転用された後、遺骨の移転場所は長い間不明のままとなっていました。
2004(平成16)年2月、シンガポール日本人会の杉野一夫事務局長から音吉の話を聞き、並々ならぬ関心を持つに至ったシンガポール国家土地管理局顧問のリョン・フォクメン(梁 福銘)氏は、精力的な調査の末、音吉の遺骨がチョア・チュー・カンにあるシンガポール国立墓地へ移されていることを発見されました。
早速、杉野事務局長から音吉遺骨埋葬場所発見の一報が、齋藤宏一美浜町長(音吉顕彰会会長)へもたらされ、4月26日に齋藤町長が訪星して埋葬場所を確認。同時に、当時音吉はオーチャード通りに邸宅を構えていた記録なども、上記の死亡年月日及び死亡場所の記録とともにリョン氏から提供されました。
その後11月23日、シンガポール日本人会及び同国政府観光局のご協力によって、国立墓地を所管するシンガポール環境庁から音吉遺骨の発掘許可を得ることができました。そして11月27日には齋藤町長が再度訪星し、同国立墓地タン・ビンファ所長立ち会いのもとで発掘・火葬した後、遺灰をイオ・チュー・カンの日本人墓地公園納骨堂に仮安置しました。
2005(平成17)年2月17日、伊勢湾に開港した中部国際空港からシンガポールへ向かう一番機で、美浜町民を始めとする120人の訪問団が出発、翌18日には日本人墓地公園において音吉遺灰の分霊式が、日星両国関係者多数の参列のもと挙行されました。音吉の遺灰は3つに分けられ、シンガポールでは日本人墓地公園納骨堂、日本では音吉の子孫である山本家先祖代々の墓、そして遭難当時、行方不明となった宝順丸14人の乗組員のために建てられた良参寺の墓に納められることになったのです。
そして2月20日、遠州灘沖での遭難後173年ぶりに帰国を果たした音吉の遺灰は、訪問団一行とともに小野浦へ到着し、地元の盛大な歓迎を受けた後、良参寺の墓に無事納められました。
略歴
1819年 | 生い立ち |
尾張国知多郡小野浦村(現美浜町)生まれ 千石船「宝順丸」で働く |
---|---|---|
1832年 | 宝順丸の遭難 |
音吉ら14人が乗った宝順丸は米や陶器を積んで江戸に向けて出港 遠州灘沖で嵐に遭い14ヶ月漂流し、音吉、久吉、岩吉のみ生き残る |
1834年 | 日本人で初めてアメリカの土を踏む |
アメリカワシントン州ケープ・アラバの海岸に漂着 インディアンのマカ族に保護される その後イギリス人の経営するハドソン湾会社に引き取られ、フォード・バンクーバーで英語教育を受ける |
1835年 | 日本人で初めてロンドンの土を踏む |
フォード・バンクーバーの太平洋地域総責任者ジョン・マクラフリンによってハワイ経由でロンドンへ送られる 1日だけ上陸を許可されロンドン市内を見物 |
1835年 | 世界初の和訳聖書作成 |
ハドソン湾会社本社によってジェネラル・パーマー号でロンドンからマカオに送られる ドイツ人宣教師カール・ギュツラフに預けられ、世界初の聖書和訳に協力 |
1837年 | 5年ぶりに日本へ |
アメリカ船モリソン号で日本へ向かう 江戸湾浦賀港に近づいたが、幕府の「無二念打払い令」による砲撃のため、断腸の思いで退去 鹿児島湾にも入港したが、またしても砲撃に遭う この日を境に祖国を捨て、上海に住む |
1843年~1858年 | 上海にて日本人漂流民の援助 | 摂津の永住丸、紀伊の天寿丸、摂津の栄力丸、半田の永栄丸など |
1849年 | 通訳として活躍 | 中国人林阿多(リン・アトウ)と名乗り、イギリス海軍の軍艦マリナー号で浦賀に来航 |
1854年 | 日英和親条約の締結 |
イギリス海軍スターリング艦隊の通訳として旗艦ウィンチェスターで長崎へ 「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」(1855年1月13日発行)に音吉のことが掲載される |
1862年 | シンガポールでの音吉 |
家族と共に上海からシンガポールへ移住 幕府の遣欧使節団(福沢諭吉)や森山栄之助(ペリー来航時の幕府主席通訳)に会う |
1864年 | イギリスに帰化した日本人第一号 |
ジョン・M・オトソンとしてイギリスへ帰化 3年後の1867年波乱の満ちた生涯を終える |