大御堂寺と源義朝の墓

公開日 2011年02月01日

源義朝公の墓

源義朝公の墓

源義朝の墓は大御堂寺(野間大坊)にある。平安末期源氏の頭領だった義朝は、平治の乱で平清盛に破れ、長田忠致を頼って内海に逃げのびた。しかし忠致は寝返り、入浴中の義朝を謀殺。

「ここに一ふりの太刀ありせばかかる遅れはとらぬものを」と言い残したと言われ、現在も多くの木太刀が奉納される。法山寺の隣には無念の湯殿跡が残る。

野間内海庄について、庄園領主、庄園としての成立時点、庄域、寄進者など推測を重ねてきたのであるが、それらはいずれも当時の庄園としてきわめて一般的なあり方を示すものであった。

この、残存史料も少なく、これといって目立った特徴ももたない一地方庄園が歴史の中に顕著な名をのこすのは、何といっても、その庄司たる長田忠致が、主人である源義朝を討ったという事実によるものである。

源義朝公の像

源義朝公の像

平治元(1159)年一二月四日、平清盛は熊野参詣に出発した。その虚をつくようにして源義朝が挙兵したのは一二月九日のことである。清盛と義朝とは、保元の乱(1156年)においては、ともに後白河側に立ったのであるが、数年にしてその対立は決定的なものとなったのである。清盛の熊野参詣そのものが、源義朝を誘発する策略であったとする説もあるが、それはともあれ、平治の乱の勃発である。この合戦は、清盛側の完勝におわる。義朝方の武士たちは、あるいは討たれあるいは地方に落ちのびようとした。

義朝自身も東国をめざしたのであるが、東海道の道すじはいずれも警固十分で、到底通過することができないと考え、美濃奥波賀(岐阜県不破郡赤坂町)から、主従わずか四人で小船に積んだ柴木の中に身をひそめ、川を下り海をわたって内海に落ちのびたのである。義朝がこの地をめざしたのは、内海庄司(義朝の墓のことなどを考えると、この内海庄司は、野間をふくむ野間内海庄をさすと思われるのであるが)の長田忠致が、「相伝の家人」であるとともに、義朝に付き従った鎌田兵衛正清(義朝の乳母子ともいわれる)の舅であったという「一方ならぬよしみ」によるのである(『平治物語』)。

大御堂寺本堂

大御堂寺本堂

義朝は、ここで正月の三ヶ日をすごす。

しかし、忠致はこの間に、子息の景致を相談し、どうせ東国に到着することは不可能であるから「人の高名にせんよりも、ここにてうって、平家の見参に入れ、義朝の所領の一所ものこさず給はるか、しからずは当国(尾張国)をなりとも給はりて候はゞ、子孫繁昌にて候はむずれ」という景致の言葉に同意して、湯殿にて義朝を暗殺するのである。正月三日、義朝三十八歳であった。主従殺害の状況については、『平治物語』に詳しいが、細部に関しては異本も多く、必ずしも明白といえない点がある。

正清の妻の自害ということも、それを自明の前提として「不義人のむすめにしては珍らしき義婦也」とする『尾張志』の評言などがあるが、『平治物語』の諸本でも、それをのせないものがある。

湯殿跡

湯殿跡

なお、義朝が裸のまま三人の者に襲われ、「正清は候はぬか。金王丸はなきか。義朝ただ今うたるるぞ」と叫んだという『平治物語』の描写は、もはや脱出不可能であるという正清のことばに対して、義朝が「サフナシ、皆存タリ、此頸打テヨ」と述べ、正清が義朝の頸を打ち落とした上自害したとする『愚管沙』のそれと、根本的なちがいをみせる。

史実の問題としてそれなりの興味をひくところであるが、たとえば『尾張名所図会』に、「伝へいふ義朝最期ノ時、せめて木太刀にてもあらばと悔み給ひし」とあるような伝承は、『愚管沙』からは出てこないという点を確認しておくことにとどめる。

義朝公家臣と長田家臣が争ったとされる乱橋

義朝公家臣と長田家臣が争ったとされる乱橋

さて、忠致によって、京にもたらされた義朝の首級は(『源平盛衰記』によると、正清のそれも京にもたらされたようである)、東の獄舎の門上の木にかけてさらしものにされた。

忠致はその功によって壱岐守に、子息景致は左衛門尉に任ぜられた。いかに出世のためとはいえ、「相伝の主と現在の聟とをうつ」行為はけがらわしいものではあるが、義朝を朝敵と認定しているが故に褒賞したのだというのが、清盛側の論理なのだが、忠致はこれが不満で、せめて「尾張国をも給はるべきにて候」という主張をくり返したために、逆に壱岐守も左衛門尉もとりあげられてしまった。

そのとき、清盛自身が怒ったという所伝と、まわりの怒りを清盛がおさえたという所伝とがあるが、ともあれ首をきられそうになった長田父子はあわてて内海に逃げ帰ったのである。

頼朝公が長田父子を磔にしたとされる松

頼朝公が長田父子を磔にしたとされる松

やがて、頼朝の武威大いにふるうようになってから、長田父子は鎌倉に参上して己が罪料を謝し、身命を惜しまず抜群の軍功をあげるならば、罪を許した上、美濃・尾張を宛て行うという頼朝のことばに歓喜して、その後数度の合戦に大いなる軍功をあげたという。ところが、天下を平定した頼朝は、義朝の墓前において、約束の通り「美濃・尾張(身の終わり)」を賜うとして、長田父子を磔にしてなぶり殺しにするのである。

ながらへて命ばかりはいきのかみ 身のをはりをば今ぞ賜はる
という歌が、高札にかかれたともいい、それは忠致の辞世であったともいう。

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