水野氏の成立と水野屋敷

2011年2月1日

水野家屋敷

この建物は、江戸時代尾張藩に仕えた水野家の屋敷で河和村では、俗にお屋敷と呼んで敬っていた。

建築年は、棟礼によると安政二年(1855年)九月とあり明治になって増築がなされている。

さかのぼって、天保十二年、(1841年)の河和村の絵図をみると、敷地は河和村の南東部の一角(現在の河和橋から国道沿いに天神社へ至る辺り)をしめていておよそ五千坪(16500平方メートル)ある。

お屋敷はその中ほどに位置している。資料はないが水野家の屋敷は、代々この地に建てられていたものと思われる。

今回復元した建物は、家屋の西半分である。東側には畳間と板間が六部屋あり、西の居間全体とは縁側でつながっている。屋敷の周りは、土塀で囲まれていて東に門がある。門の形は残存する図面からは判明しないが、おそらく武家の格式からみて長屋門だったのではなかろうか。長屋門とは、重厚で高い風格を 宿した門である。この門を挟むようにして、両側に門番が住む長屋が建っている。庭には、松や槇の大木がそびえており、地頭屋敷にふさわしい豪壮な構えでその面影が偲ばれる。

水野家御系譜には、「慶長十六年(1611年)四月二十三日、権現様(徳川家康)河和屋敷へ成らせられ光康母妙源共御目見」とある。

また「寛永七年(1630年)二月、源敬様(尾張藩主初代義直)河和屋敷へ御成」とあり、酒肴で持て成している。

その後、尾張藩主代がわりには、知多郡御廻りが慣例となるが、その都度河和屋敷へ立ち寄り当主と懇談している。こうしたいきさつから考えて河和の水野氏は家康公以来、尾張藩の中では、由緒深い家として特別な扱いを受けていたことは確かである。 

水野屋敷記念館については、こちらもご覧ください

河和水野氏の成立

近世、河和村を在所とした給人水野氏は、三州田原の戸田氏に始まり緒川・刈谷の水野氏の系譜につながると言える。十四世紀の中ごろ三河守護の一色氏が知多半島へ進出実権を握る。しかし、一色氏の支配も文明の乱の頃になると、一族たちが戦う羽目となり自滅する。そして一色氏に代わって知多半島を支配したのが、一色氏の被官であった佐治氏と田原城主の戸田氏であった。佐治氏は大野・内海を拠点に知多半島の西海岸の支配権を握り、戸田氏は半島の河和・富貴を領有し先端の師崎を佐治氏と共有して、三河湾の制海権を握った。

この佐治・戸田両氏を脅かしたのは緒川の水野氏である。水野氏は、緒川に城を築き刈谷にも進出していたが、信元の代になると織田氏と手を結び、知多半島を破竹の勢いで南進して佐治・戸田氏と戦った。勢いに押された戸田氏は、戦いに敗れ富貴・布土・北方を失い半島における戸田氏の勢力が危機に瀕した。そのころ(天文十六年)本家たる田原の戸田氏は、岡崎の松平氏から駿河の今川義元のもとへ人質として送られる竹千代(家康)を強奪するという事件を起こした。その結果、田原の戸田氏は、今川氏に攻め滅ぼされてしまう。そこで、知多半島の戸田氏は信元と講和を結んで河和を残すことを図る。ここに河和城主戸田孫八郎守光は、信元の娘妙源を妻にめとり婿となって水野氏の一族に連なった。ほどなく、戸田孫八郎は天正十八年(1590年)秀吉の小田原攻めに加わり陣中で討ち死にする。ところが、この知らせを聞いた河和の郷民は、なぜか大いに乱れて城を破壊してしまう。

このため孫八郎の嫡子万千代(光康)は、一時野間大坊に身を潜めた後、河和の地を逃れ母とともに江戸表へ赴き伝通院(家康の母於大)のもとで成長する。慶長二年(1597年)には、家康の意向で外祖父水野信元の名跡を継ぎ、水野万千代となり武蔵国で七〇〇石を給付される。 その後、母妙源尼は万千代に旧領の内、恩のある河和の地を下し置かれるよう家康に度々願い出る。家康は万千代が河和の民に追い出されたいきさつを考慮して三州刈谷を与えると勧めたが、妙源尼は敢えて河和を望み家康は、これを聞き届け河和の郷一四六〇石を給付される。

こうして、水野惣右衛門光康は河和へ帰りその地頭となった。このころ知多郡は家康の直轄領となっており水野光康は、やがて尾張藩主義直に仕えることになる。

系図

田原戸田氏・河和戸田氏

宗光(弾正左衛門慰)
文明年間(1469年~1487年)、幡頭崎に陣代を置き河和・富貴を領有。
憲光(弾正忠)
明応九年(1500年)、幡頭明神の社を建立。その後、河和・富貴・布土・師崎に砦を持つ。
永正六年(1509年)、家督を譲り河和城に移り住み、「河和殿」と称する。
政光(左近尉)
田原城主として、東三河を平定。退隠後「仁崎殿」と称する。
宗光(弾正少弼)
天文一六年(1547年)、竹千代人質事件で堯光と共に討死。
親光(万五郎)
左近尉政光三男
織田信長公旗下。一万八千石領。
繁光(孫右衛門)
織田信長公旗下。一万八千石領。
守光(孫八郎)
織田信長公、信雄公、豊臣秀吉公旗下。一万八千石領
天正十八年(1590年)、相州小田原陣中にて討死。

緒川・刈谷水野氏

忠政(藤七郎)
永正六年(1509年)、父清忠の後を継ぐ。十万余石。
西尾・常滑・奥田・細目等の諸城を押さえ、尾張・三河両国に亘って武威を張る。
天文二年(1533年)、本城の適地として刈谷に新城を築く。
信元(藤七郎)
天文十二年(1543年)七月、父忠政の後を継ぐ。およそ二十四万石。
大高・常滑・奥田等六城を兼領する。
天正三年(1575年)十二月、信元の領民が甲斐武田の属領に塩を送ったことを口実に、信長の指図で家康の家臣に殺害される。

河和水野氏

光康(惣右衛門)
河和に出生、幼年母と江戸に住む。
慶長二年(1597年)、武州足立郡大門郷七〇〇石。
同年上意にて水野下野守信元の名跡を継ぎ、戸田姓を水野に改める。
慶長六年(1601年)、河和郷一四六〇石。
慶長十六年(1611年)四月、権現様(家康公)河和屋敷へ御成。
寛永七年(1630年)三月、源敬様(初代藩主義直)河和屋敷へ御成。
政康(孫太夫)
慶安元年(1648年)、父の家督を継ぐ。
万治三年(1660年)三月、瑞竜院(二代藩主光友)河和屋敷へ御成。
伊頼(忠左衛門)
寛文二年(1662年)二月、父の家督を継ぐ。普請組寄合。
延宝二年(1674年)三月、御番頭。
同年七月十日、泰心院様(三代藩主綱誠)河和屋敷へ御成。
康寛(惣右衛門)
父の家督を継ぐ。
天和二年(1682年)十二月、御番頭。
宝永四年(1707年)三月、大寄合。
同六年九月二十二日、円覚院様(四代藩主吉道)河和屋敷へ御成。
康村(内蔵助)
享保十六年(1731年)十二月、養父の家督を継ぐ。普請組寄合。
同十七年六月、御番頭
同十八年十一月五日、章善院様(七代藩主宗春)河和屋敷へ御成。
延享元年(1744年)八月、御部屋(宗睦卿)御傳
康友(惣右衛門)
延享三年(1746年)七月、父の家督を継ぐ。普請組大寄合。
宝暦十三年(1763年)三月、御番頭。
安永四年(1775年)八月二十七日、源明様(九代藩主宗睦)河和屋敷へ御成。
康般(助之進)
天明元年(1781年)十二月、御側詰。
同八年十一月、父の家督を継ぐ、普請組寄合。
康民(内蔵)
寛政二年(1790年)八月、父の家督を継ぐ。普請組寄合。
文化十年(1813年)、仙洞(後桜町上皇)崩御に付江戸表へ御使。
文政四年(1821年)一月、大御番頭。
康功(惣右衛門)
天保九年(1838年)十二月、父の家督を継ぐ。大番頭格寄合。
同十四年六月、御用人。
嘉永元年(1848年)十一月、御側懸り。大奥入御免。
安政二年(1855年)二月、御側大寄合。
康年(内蔵)
安政六年(1859年)父の家督を継ぐ。大寄合。
元治元年(1864年)九月、父に家督を返す。
慶応四年(1868年)再度父の家督を継ぐ。大寄合。御用人。

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